稲霊とアイデンティティ。
実りの季節、無農薬の田んぼで育った稲穂の先にできる黒い球。これが糀菌のもと稲霊である。昔は豊作を現れだった稲霊。現代ではいもち病という稲の病気として忌み嫌われている。稲の病気状態が国菌のもととはなんとも皮肉な話だ。
稲霊をはじめて見た時、その美しさに魂が激しく揺さぶられた。感動というレベルを遥かに超えた、魂の覚醒とでも言うべきもの。
「わたしは日本人である」
それまでわたしは自分が日本人であることには全く無自覚であった。なんとなく日本という国に生まれ、なんとなく生きてきたといえばいいだろうか。アイデンティティのかけらも存在しなかった。
それを一瞬にしてひっくり返したのが、
稲霊を実らせた、たった一本の稲穂。そこにみたのは、古の人々がみてきたに違いない神の宿りだった。
いつかこの稲霊で糀を起こしてみたい。わたしたちの祖先がそうしてきたように。
出来上がった糀で甘酒が作りたいとか味噌が作りたいなどという目的は微塵もなく、ただ稲霊から糀を起こしたいと思った。目には見えない、いと小さき神さまに触れ、戯れるように対話したいと。
すると、なかなか手に入らないと思っていた稲霊が次々とわたしのもとにやって来た。稲霊からの種糀の採り方を教えてくれる方とも巡り会えた。
糀をめぐるご縁が次々と繋がっていく不思議に、目には見えないものの後押しを感じずにはいられなかった。
今から数年前のことだ。
あれから幾度となく稲霊から糀を起こしてきたが、その度に感心するのは古の日本人の感性の鋭さだ。彼らはおそらく現代のわたしたちが失ってしまった直観的な感性を豊かに持ち合わせていたに違いない。
稲霊から種糀起こしをしながら、その思いを新たに心に刻む夏の終わりである。
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